fc2ブログ

神道では、亡くなった日から50日間を忌中とする。
魏志倭人伝にも記された古代の風習、「殯(もがり)」の名残りだ。

当時は遺体はすぐには埋葬されず、家族は長い期間を棺に入った故人とともに過ごしたという。
いまでいうお通夜である。

黄泉国でイザナギがのぞき見た腐乱したイザナミの姿は、殯の遺体をあらわしたものだと考えられる。

仏教でも、四十九日の法要までが忌中。
一周忌までが喪中とされる。

まあうちは浄土真宗なんで、基本的には忌中や喪中って概念自体が存在しないんだけどね。

とはいえ、神社参拝となると話はべつだ。
忌中の身で神社に行くのは完全にタブーである。

ではなぜ、親父の四十九日の前日、1月22日に飯盛神社に行ったのかというと。

まずひとつは、これが最後の機会になるかもしれないということ。

なんせイザナミ高天原の「創世期」に入っちゃったんでね。
このさきどこでどうなるかわからないし。
法要の翌日に千葉にもどるので、ゆっくり時間がとれるのは22日しかなかった。

もうひとつは、わが天命をすでにイザナミ高天原にあずけてあるから。

飯盛山はそのイザナミのご神体山。
僕の参拝への正否は、どういう裁定であれすべてをゆだねます。
ってカンジかな。

それに、もともとイザナミは黄泉津大神。
事象のモットーは「さかさま」である。

イザナミ+八幡の「逆国家鎮護」事象にしてもそう。
忌中参拝って「さかさま」な行動も、受け容れてもらえるはず。
そう考えた。

もちろんほかの神様だったらぜったいにNG。
とくにアジスキタカヒコネ(高鴨神社など)なんか怒りまくって、アメワカヒコの喪屋のようにぶっ壊されそうだ。

とはいってもね。
やはり死のケガレをまとってるわけだから、神社さんや参拝客には申しわけない。
できるだけ避けるように心がけ、わきの車道(あじさいの道)から登山道に入って一気に山頂を目指し、帰りに本社だけこそっと拝ませてもらうつもりだった。

一般の参拝とは、「さかさま」パターン。
というかフツーは山頂まで行かずに、イザナミの本社とイタケル(五十猛命)の中宮社を参っておわり。

僕自身これまで山頂に登ったことなかったし、正直たかが標高382.4mって甘く見てたと思う。


あ、まえもって云っとくけど、「山頂断念記」ってタイトルでもとくにスピリチュアルや事象的なことはなにもないので、その辺のトコ期待しないでくださいね。

飯盛山はこんなトコ。
って紹介文として読んでいただければと思います。


さて、福岡市西区の飯盛山へは、実家のバス停から15分くらいの田村三丁目で降りて20分ほど歩く。

100_1094.jpg

福岡市は「天神ビックバン」の中心街はもちろん。
西区やとなりの糸島市までどんどん宅地化されてすっかり変わってしまったけど、この辺りは時間が止まったようにむかしのままだ。

100_1095.jpg

ごらんの標識のとおり↓
周辺地域一帯は古代遺跡の宝庫。

100_1098.jpg

こんなカンジ。

100_1130.jpg

そこいらの畑には、フツーに弥生土器のかけらが散らばっている。

じつはうちの実家の近くにも弥生初期最大級の環濠集落や、甕棺墓の遺跡があって、日本最古の「早良国」の一部だったらしい。
博多区の板付遺跡の方が有名だけどね。

その板付遺跡をふくむ「奴国」(漢委奴国王の金印で有名)とは国境を接してたはずなんだが、なぜか魏志倭人伝には登場しない。
倭国大乱で王族が滅びちゃったのかもな。

もしかしたら福岡市の西側に式内社がないのとも、どっかでつながってんのかもしれないな。

福岡市の早良区と西区は旧早良郡。
飯盛山の周辺は、平安時代の「和名類聚抄」では早良郡平群郷。

平群(へぐり)氏は古墳時代に活躍した軍事氏族で、武内宿禰(たけうちのすくね)の子孫。
いまの奈良県生駒郡平群町を本拠とした。

福岡市東区志賀島の阿曇(あずみ)氏とおなじく、応神王朝(八幡神)で中央政界入りしてるので、もしかしたら初代の平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)は飯盛山を見て育ったのかも?

本社の右神はなぜかその応神天皇(品陀和気命)だしね。

100_1115.jpg

さて、あえて人目を避け、参道入口の鳥居に到着。
ほとんどは飯盛神社本社に隣接する駐車場から本殿に向かうので、あんのじょう誰もいなかった。

100_1114.jpg

流鏑馬神事の通りを、本社を横目にあじさいの道へ。

100_1101.jpg

もう節分祭仕様になってたな。

鳥居には大きな鬼の面。
本殿の前には大きなお多福のお面。

鬼の顔見てもわかるように、飯盛神社さんは庶民ウケねらい。
黄泉津大神が主祭神でも、そういう重々しさや厳かさとは無縁。

もちろん球磨村の岩戸熊野坐神社のようなおどろおどろしさもない。

100_1108.jpg

あじさいの道(車道)をひとり歩く。

けっこうな坂道で、くねくねして思ったより距離がある。

バス停からかれこれ1時間以上は歩きつづけだし、運動不足だし。
だんだん息が上がってきたところで、ようやく山頂が見えてきた。

100_1109.jpg

車道から山道へ。

100_1110.jpg

問題はここ↓から。

100_1112.jpg

急に勾配が変わり、足場もおぼつかなくなってきた。

100_1111.jpg

それでも、ついたぜい肉にムチ打って汗だくで登ってたんだが。
おどろいたよ。
まさかの渋滞発生だ。

もう正月じゃないし、土曜日だから大丈夫だろうと思ってたら、願いを叶えたい家族連れやカップルたちにくわえ、完全フル装備の山歩き高齢者の団体さんまでご登場。

福島第一原発ばりの想定外。

神社に参ったあと山頂に登れば願いが叶う。
それが飯盛神社のウリでもある。

もちろん僕は願いを叶えようと登ったわけじゃない。
イザナミ高天原と神々を讃えるつもりだった。

だけど、あわよくば山頂にひとりきりの図を想像してた僕としては、カンペキ目論見が外れた。

しかも誰もマスクなんかしてやしない。
そりゃ運動してんだもんな。
二重マスクにビジネスシューズなんて場違いなおバカは僕だけ。

完全に甘く見てたよ。

休憩なしで一気にってのが祟ってだんだん足腰にきてるし。
がんばって山頂まで行っても、そこがどういう状況か容易に想像がつく。

まさに「密」だ。

イザナミの黄泉力に利用され、
ご神体山のてっぺんにお集りのみなさまには死のケガレを。
お返しはオミクロン株で。
なんて話になったらシャレになんないもんな。

というわけで、途中で山頂は断念。
じかに飯盛山にふれたことで意義はあった。
ということにした。

のでした。
チャンチャン (^ ^;♪


山道から車道にもどると、なぜかひとりのおじさんが立っていた。

教えられた方向に行くと舗装が途切れ、ふたたび山道になった。
どうやら「ラクして帰るな」ってお告げらしい。

あきらめて、足をすべらせながら岩場の小径を降りてゆくと、中宮社のわきに出た。

その場で五十猛命の「再生の木」たらんことを祈り、本社でイザナミ高天原と神々を讃えて飯盛山をあとにした。


帰りには、国史跡の吉武高木遺跡に寄ってみた。
「最古の王墓」と「最古の三種の神器」が発掘され、わが国最初の王国「早良国」の根拠となった遺跡だ。

現在は埋め戻されて、やよいの風公園になっている。

100_1117.jpg

吉武高木遺跡は早良王国の中心地。
弥生だけでなく、旧石器時代からの複合遺跡。

100_1133.jpg

はるか縄文のむかし。
さらには旧石器の太古の時代から、飯盛山は人々の暮らしを見守りつづけてきたのだと思うと、なんだか胸が熱くなった。

そしておそらくその1万何千年ものあいだ。
飯盛山は人々の信仰の対象でありつづけてきたのだろう。

イザナミの飯盛山って、そういう山だ。

100_1135.jpg

室見川をはさんで油山側には四箇田団地。

東京の高島平みたいなこの高層団地の地下にも、大規模な弥生遺跡が眠っている....。


ところで、当ブログのタイトル「ねことそらのあひだ」は、地と天のあいだを意味する。

トルコで発掘された最古の大地母神像は、ネコ科の野獣を従えていた。
なので、地=ねこ。
天=そら。

この国の大地母神はイザナミ。
いまや高天原までイザナミだけどね。

つまりサブタイトルは、「イザナミとイザナミのあひだ」。
ってことになるわけだ(苦笑)。

で、1月22日1:08(煩悩かよ)の日向灘M6.6震度5強だけども。

震源にもっとも近いのは、大分県佐伯市の深島。

住民の7倍。
100匹をこえるネコがいる、「猫の島」として知られてるそうだ。

夫婦の「22」の年。
大地母神のネコ科のトラ年だけに、ことしはやはり狙われてると考えといた方がよさそうだ。

そういう震源だと思う。

やっぱにゃんこの日、2月22日は要注意かもね。


関連記事
2022.01.27 / Top↑
Secret